ケータイ小説の文章量と画面スクロールでかかる右手への負荷

こんな短い文章でも表示ギリギリラインなケータイ「小説」。これをどう克服するか? スタンダードな物書き魂を持っている者なら、それなら思いをギュッと詰め込んで簡潔にすればいい、と考えるはずだ。短歌や俳句のように痛みを覚えながら、ギュッと。

現在ベストセラーになっている「テンペスト」の著者・池上永一は「本作に150回の見せ場を盛り込むために、180ページのエピソードをまず書き上げてからそれを100ページに凝縮することを繰り返した」という。その結果、時代小説初心者の若い女子タレントさんにも「マンガを読むようにするすると大量に読めてしま」う、わかりやすくかつ緻密な物語が出来上がったのだ。
(著者ご本人は映像を観るようなイメージで読めるように、と考えていたらしいが)


ケータイ小説のテクニックは、それと真逆の向きなんだと感じる。
1ページあたり極端に少ない文章量、間というには多すぎる改行。その「間」の場所で、登場人物はただ、ポカーンとしている、もしくは思考の流れがストップしている。そして、小さなエピソードを何度も蒸し返して心の中は大炎上。緩急を拒否した構成。


携帯とPCとはディスプレイが「面」と「線」ほど違うため、一概に一絡げにはできないが、そもそも改行を多用する文体は“ディスプレイ上での文字エンタテイメント”、PC個人サイトの初期からあるもので、当時からネタ日記、また自虐を含むポエム的日記などで、今のケータイ小説の原型は完成されていた気がする。糸井重里が立ち上げた「ほぼ日刊イトイ新聞」も改行文体だったし。だが、その当時からその文体を嫌う人は少なからずいた。本好きの人々にとってあれは「スカスカで読み応えのないもの」で、大部分のポエム日記の、俯瞰をともなわない自己陶酔の言葉に嫌悪を露わにしていた。それは今「ケータイ小説」を嫌う人の理由と同質のものと感じる。


また、どうやらケータイ小説の内容は作者の実体験に基づいていることが前提らしい(それがたとえ嘘であっても)。辛いとき「辛い」と言い、悲しいとき「悲しい」と嘆き、嬉しいとき「チョー嬉しい」と捻りなく生々しく記録するライブ感(これも別に目新しいもんじゃないと思うが)が、それを読むユーザの共感には不可欠なのだ。描写に言葉を尽くすことはすなわち冷静なアタマに変換することになり、逆に共感・没頭の邪魔になるんだナとは思う。

そうか、オーディエンスの反応を待つ時間なのか。だから「ポカーン」なのか。


そりゃそうだ携帯“電話”なんだからな。通話感覚か。ん? いやそれも新しいもんじゃないような気がするが。


http://nkst.jp/vote2/novel.php?auther=20080001

あたし彼女」は、拙が読了したはじめてのケータイ小説だ。PC上ではあるが、読み終えた感想。


“かなり年上のお姉さん”だから、同じ女子として見方はキツイよ。甘すぎる。ぬるすぎる。もっと人生はきびしいのだ。暇つぶしならニュース記事やmixiでじゅうぶん。素性もしれない若い女子の自慢ヨタ話を、指を必死に使って読むほどの根気も没頭できるフィット感もない。PC上でこれなら携帯上ではなおさらきつい。若い飲み仲間と酒を飲みながら身の上話、悩みに耳を傾けているほうが余程濃密な時間を過ごせる。23歳(登場人物の年齢)だったら立派なオトナでしょうが。男にタカってないで、親元出てとっとと働いてちゃんと年金払いなさい、バカ。
と嘆きたくなる。これが事実に基づく話だったらなおさら。