6月11日 「小さな冷蔵庫」

あの男はいわゆる『だめんず』に属していたのかもしれない。夜道で警棒を振るアルバイトで日銭を稼ぎ,その多くを自分の好きなことに使い果たしていた。一緒に暮らしてた彼女は,本業の合間に派遣社員をしていて,彼より少しだけ収入が多かった。ただしそれは“見かけ上のリッチ”。本業でもらえるギャラはほんのわずか。派遣の給料と合わせると,それなりの金額にはなるが,それでも彼女は家賃を払い,公共料金を負担し,ふたり+二匹の猫の食事代を賄うと月末に現金はほとんど手元に残らない。

家に帰ると,いきなり機材が増えている。ああまたか,と彼女は嘆く。彼のローンはピーク時には毎月10万ほどだっただろうか。自転車操業な生活も,夢を追う彼には“ヘ”でもない。支払いのため,彼女の持っていたわずかな金品は質に入った。彼はローン審査を通らなくなったが,彼女名義でさらに“必要な”機材を揃え,創作に励んだ。

彼女は,ふたつの仕事に加えて夜,ハイヒールを穿いて酒を給仕するアルバイトを増やした。見かけ上の収入はさらに増えたけど,新しい洋服を買う余裕は相変わらずない。彼との生活が3年を過ぎた頃には,彼女はくたくたに疲れ切っていた。

家にある冷凍冷蔵庫は,最初こそ新鮮な野菜や肉や飲み物で賑やかだったけど,いつしか彼女のあせりや疲れや諦めや悲しみで埋め尽くされていった。賞味期限切れの心が,扉を内側から押し開けてしまうほどになった頃,猫たちと冷蔵庫を置いて,彼女は町を出た。

彼女は新しい冷蔵庫を買った。小さな小さな,安温泉宿にあるような,氷のできない四角い冷蔵庫。飲み物が冷えればいい。ひとりぶんの食べ残しが保管できればいい。それぐらいの大きさが余計なもの溜め込まなくてちょうどいいと思ったから。

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やがてできた新しい彼は,冷蔵庫を持っていなかった。住まいは狭く,洗濯機を置く場所もないし,据え付けの冷蔵庫もない。だからビールがすぐにぬるくなってしまうし,食事も外食や弁当に頼らざるを得ない生活。

彼女は彼のために冷蔵庫を大きなサイズに買い換えようとした。でも,容量が増えるほどに,またああいう気持ちまでぎゅうぎゅうと詰め込んでしまうかもしれない,という不安が,それを躊躇させていた。

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ある日,彼の部屋を訪れると,小さいながらも冷凍機能のついた冷蔵庫が廊下に据えられていた。給料日に思い切って買ったよ,と嬉しそうに笑う。
彼女はなんだか無性に腹が立った。生意気。うちのより大きいじゃん。冷凍庫なんてついてる。先を越されたような,取り残されたような,孤独なような,寂しいような。たかが家電品,しかも必需品だというのに。

ビールあるんでしょ,頂戴。

ぞんざいな口調で彼女が言うと彼は,なにが面白くないんだよワカンナイナ,と,刺々しい動作で扉を開けた。中にはビールが3本。1本は,彼女がいつも飲むダイエットビール。もう1本は,彼女が好きな,ちょっと高い天然酵母白ビール。そして,彼が好きな発泡酒。つまみは,ちょっと前からふたりが気に入っている,ブルーチーズ入りのクリームスプレッド。

無言でごくごくと飲む。1缶が空になる頃にやっと,とがった唇が引っ込んだ。拭い切れない寂しさを抱えながらも,少しだけ,笑顔が戻った。

まだ完全に機嫌が直ったわけじゃない。だって,一緒に買おうと思って彼の給料日まで待っていたサンスベリアの植木まで,一人でとっとと揃えちゃってるんだもの。いつもそうなんだから…。一瞬,昔の彼との生活を思い出したけど,すぐに打ち消す。

この扉ん中には,彼の好きなものがすでにいくつも入っている。熟したアボガドやバーモントジュースとか納豆とかバナナとか。その隙間に,アタシの分のビールとチーズが,いつも用意されてたりなんかしたら最高に幸せだろうな,なんて贅沢な考えを巡らせる。

彼はこうやって,どんどん自分の荷物を増やしていくのだろう。みずからの意志で。

近いうちに自分の冷蔵庫も新しくしようと彼女は思った。そろそろそんな時期だ。そういう年頃だ。わかっているのだ。

だけど。