ダストボックスはクリネックス(鼻紙)の白い花畑

ずっとずっとお世話になっていたKM編集長がR社を退くにあたっての送別会に、OBとして招いていただいた。平日、しかも月曜日にもかかわらず皆終電を逃すほどの勢いで飲み、騒ぎ、感謝し、ねぎらい、惜しんだ。


懐かしい顔がたくさんあり、くちぐちに「あ、まるこちゃんだ」とすぐ拙に手を振って近づいて下さるのに、拙のほうは面影を見出すまでに相当の時間を費やしてしまい、まったく不甲斐ないったら。でも、少し話すとすぐに、どの部署のどの方だったか思い出せた。最後まで思い出せなかった数名は、オフィスで直接のおつきあいがなかった広告や営業の方だとあとでわかり、ちょっとホッとしたり。


それにしても、拙はなんて運がいいんだろう。日記でつい繰り返し記してしまうが、わたしは音大出身でもなければミュージシャンでもない。ただちょっとだけ耳の良いバンド経験者、というだけなのだ。それが師匠にも恵まれ、譜面や原稿を書いてギャラまでもらい、あげくには本を創る現場にまで籍を置くことができた。今の会社だってR社の同僚が拾ってくれたのだ。かれこれ20年も、実力が追いつかないほどの運で生きていられた。


しかし、だんだんとそれも収束に近づいているのではないかと感じる。編集長も去った。同僚はシビアに偉くなった。後輩もいつしか実力を蓄えて偉くなった。わたしはもうとっくに若手から年寄り席に回っている。年齢的には。もうミソッカスなラッキーは得られない。


さあ、ほんとうにどうしよう?


やるよやるとと吼えてしまえば精が逃げる。やってるやってると喋ってしまえばその経過だけで満足してしまう。なんと小さいことか。そんな人は山ほどいる。そして、あたしは今は明らかにまだ「山ほど」の中の人だ。


あたしの実力とは、本当は、どんぐらいのものなのだろうか?

無理して頑張らなきゃできないことは、「やりたいこと」ではないし、「すべきこと」でもない。「せずにはいられない」ことをするだけ、なんだな。