添い寝屋稼業の、しおりさん

「自分のものだと思うと、自分の立場とかがものすごく不利でしょう?だから、今のところは、あなたはとりあえず無なの、保留なの、ポーズのボタン押してるの、買い置きなの、人生のおまけなの。」


活字の世界で、眠れぬ人に添い寝する仕事を始めた“しおり”さんが放った言葉は、活字の中の友人に向けたものだったけど、それは実在のあたしの心をまっすぐ音たてて射抜いた。キリンジ「ロマンティック街道」の“クローゼットで陽の目をみない恋”の詞に同一感を感じていた矢先にダブルなダメージ。


彼とあたしの間には難しいことがいくつかあって、あたしたちは、それら全てにいちど「PAUSE」ボタンを押した。そしてほんのちょっとずつ解除しながら、いま同じ部屋で暮らしている。でも保留されたものはまだまだたくさんあって、いつかすべてのボタンを「STOP」か「PLAY」にしなければならないけど、最後のボタンがPLAYになることをあたしは期待してはいけないと思っている。もしかしてデッキが壊れてしまうまで、最後のボタンはPAUSEのままかもしれないと、諦念で自分の心を護っている。


彼と別れたら、あたしはどうなってしまうだろう。満足な体力はない。もうじきあたしの足は寿命を迎え、シリコンの骨に取り替えられてしまう。体の麓から徐々に朽ちていくことに、ひとりで耐えられるだろうか? 体調を崩すたびにそんなことを思い、ひとり憂う。また、海外旅行のみやげ話をきくたび、やり残しそうなことにいらだつ。


最期まで正気でいられるよう、あたしは音楽を手元においているのかもしれない。貯金のかわりにテルミンを習い、駅前留学のかわりに外国の曲を覚える。ギターを抱え、ピアノに向かい、知ってる限りの曲を弾いて不安を叩き落とす老後。ひとりきりになっても、誰かひとりでも音で楽しんでくれれば、あたしの人生も意味があるというものだ。


引用:

白河夜船 (角川文庫)

白河夜船 (角川文庫)