運転手は君だ。車掌は僕だ。

早朝に入った連絡で急逝を知り快速でその場に行きたかったがあいにく特急も急行も各駅停車も動いていないのでせめてまだ死んだと納得できず空中に漂っているであろう叔父に向かって早すぎるよとつぶやいてみる。

今夜はきっと酒を飲まずにいられない。
叔父は昨晩、風邪をひいたといって寝床に入ったとたんに息をしなくなったそうだ。
京浜急行の運転手をしていた叔父の背中を、車両の一番前からのぞくのが好きだった。はじめゆるやかに、やがてぐんぐん加速してメーターが100km以上をさした時、まるで自分がジェット機でも運転しているように爽快な気分になったものだった。

まじめな人だった。学歴重視の電鉄系企業で苦労しながら出世し、もうじき定年だから存分に家族サービスができるぞ、という時期だった。
ここ半年で急にボケの進んだ祖母は息子の親不孝を理解できるだろうか。母は弟に先をいかれてどんな気持ちだろうか。

喪服を身につけ、通夜の席に行き、冠婚葬祭の時にしか会わない親戚たちと話し、仏の顔を拝むと、私たちは舞台にあがった“かなしみの親族”になる。仰々しい設備や異様な雰囲気の中、現実を受け入れられず、何か嘘くさいなぁ、と思い(笑いまでわいてくる)ながらも、自分の寿命や死にぎわのことを考える。そして体の芯から涙があふれてきて、本当のかなしみに包まれる。仏への惜別の思い、後悔、我が身にいずれ必ず起きる死のサマへの恐怖。すべてが白い脱脂綿のようにまとまって襲い掛かる。たぶん、しばらくはよく眠れないだろう。